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関 信浩が2002年から書き続けるブログ。ソーシャルメディア黎明期の日本や米国の話題を、元・記者という視点と、スタートアップ企業の経営者というインサイダーの立場を駆使して、さまざまな切り口で執筆しています

今日は休みの日ということもあり、久々に(本当に久々!)に、前職時代から書いているブログに投稿します。

なんで古いブログを使うのかというと、今日書こうと思っているのが、記者やブロガーが情報を提供してもらったときに、どう思うのか、というのを、前職時代に考えたことも含めて書こうと思ったからです。
ブロガーの方々には、高名な記者の方や、元新聞記者の方などが多数いらっしゃるのですが、わたしは雑誌記者、という立場でした(日経コンピュータの記者をしていました)。当時を振り返ってみると、雑誌記者の中では比較的よい対応をしていただいていましたが、新聞記者の方々に比べると、取材のアポイントのとりにくさなどで、やはり差を感じる存在でした。また日経コンピュータの発行元である日経BP社(日本経済新聞社の100%子会社)は、企業向けのビジネス情報に特化しており(最近は日経ホーム出版との合併でコンシューマ向け情報も扱っているようです)、あまり人間関係がドロドロとうずまくような内容の記事を書く機会はまれでした(人によっては「動かないコンピュータ」といった記事を多数書いていた方もいらっしゃいましたが、少なくても私にはまれでした)。

さて、ディスクロージャーが終わったところで、最近思っていたことを徒然と書いてみたいと思います。

記者のリワード(報酬)問題
ブログ界ではペイパーポスト問題がいまだに熱いようですが、記者だったころの私も、この問題を考えなかったわけではありません。記事に対して金銭的報酬をもらう、ということはさすがに完全にアウトだったわけですが、この問題、考えだすとキリがありません。

例えば「記者会見の帰りに、ちょっとしたお土産(グッズ)をもらう」のはどうなのか? 先輩記者、というか私が入ったときにはすでに日経エレクトロニクス編集長を経て人事部長だった岡部さんは、我々新人記者に対して「絶対もらっちゃイカン。返すこと」と教えてくれましたし、偶然同席した記者会見のあとに、出口でグッズ(会社のロゴ入りボールペンか何かだと思います)を入れた袋をもらうのを明確に断っていました。

しかし一方で、記者会見というのは、広報にとっては集客がまず第一の悩みの種。なのであの手この手で集客します。記者会見にタレント・有名人を呼ぶのは、実際に媒体に取り上げられる可能性が高まるだけでなく、その前段階である記者の集客にも大きな効果があります。実際、ドコモのiモードの記者会見では、当時大人気だった広末涼子さんが記者会見に来ることが記者会見の事前案内にも書いてありました。それもご丁寧に、第一部がiモードの紹介で、第二部が広末涼子さんの写真撮影会、と書いてあったように記憶しています(私は行かなかったので実際にそうだったかは裏を取らないと分かりません)。それもこの記者会見、1媒体2名様まで、と入場制限までしていました。

記者も人の子、広末涼子さんを生で見てみたい、というミーハーな記者がいっぱいいることを見込んだ広報戦略ですね。

ほかにも、あるプリンターの記者会見では、事前に「会見の帰りのお土産は、発表されたプリンターらしい」という情報が流れていて、記者会見はいつも以上に盛況、ということもありました(広報はレビュー記事のために製品を借りることができますが、記者やライター個人に「贈呈」することはほとんどありません)。

さて、これらは非金銭ではありますが、リワードではあるんだと思います。そもそも記者会見だって、ふつうの人から見れば、だれよりも早く情報を得られ、質問に対しても丁寧に回答してもらう機会を得られる、という意味では、ずいぶんよいリワードです。

もちろん、これは記者会見を開いている企業と、ある意味ギブアンドテイクになっていて、企業としてはなんらかのリワードを与えても、その見返りとして、広報活動を支援してもらっているわけです(例えば記事を書いてもらうことで、その読者に読んでもらえる)。

記者としてどう考えていたか
おそらく記者ひとりひとりが、自分なりのバランス感覚を持っていて、岡部さんのように何も受け取らない、という人も入れば、広末涼子さんを見たいから記者会見に行くが、どんな記事を書くかは読者のための視点で媚びはうらない、という人もいるでしょう。そして、リワードをもらったから甘めに記事を書くか、という人もいるでしょう。

そして自分のとったスタンスの責任は、長期的に見れば自分でとることになります。「さまざまなリワードを渡しているのに全然記事にしてくれないから記者会見に呼ぶのはやめよう」とか「個別取材はやんわり断ろう」と思われて、思うように記事を書けなくなることもあるでしょう。読者から「この記事は偏っていて参考にならない」というフィードバックを多くもらう記者は、職を失うこともあります(左遷とかかもしれませんが)。これには、記事が記名である、という前提がつくような気がしますが、よく考えたら編集部機能があれば、無記名で読者からは判別できなくても、編集部に自浄作用があれば大丈夫ですね。

実際、隣に座っていた駆け出しの記者が、来日中の人に取材しようとして先方の広報担当の方に取材依頼をして「日程の調整がつかないので」とやんわり断られた後に、わたしあてに「その人を取材してくれないか」という取材依頼がくる、なんてこともありました(そのときには、その記者が傷つかないように「いや、ずいぶん前から、その方が来日したら取材させてください、と先方の広報の方にお願いしていたんだよ」と言って、取材に同行してもらったことを思い出しました)。

マスコミでは、表向きにはいろいろなルールやガイドラインがありますが、ルールやガイドラインを決めればうまくいくわけではないのは、最近のマスコミを見るまでもなく明らかでしょう。ルールやガイドラインを作るためにいろんな人がいろいろ意見を出し合うことは非常に重要だと思いますが、作った後にそれを遵守していく(身を以て体現していく)こと、そして考え続けて、必要であれば直す、ということが重要なのではないかと思います。

実際、駆け出し記者だったころは、こんなことをここまでまじめに考えていたわけではないので、いま考えると恥ずかしいようなことや、今ではしないようなことを当時はしていたりもします。記者だってもちろん生活のために稼がなくちゃいけなくて仕事をしている部分もありますが、それだけじゃなく「これを伝えたい」とか「だれよりも早くスクープして自慢したい」とか、いろんなモティベーションがあります。そして、それを満たしてくれるようなリワードを求めて行動してしまう。これは、技術者が寝食を忘れて金銭的報酬もないのに仕事をする、といったことと同じで、人間のわりと基本的な行動原理だと思います。そしてモティベーションの種類は千差万別。

だから、人間が社会で生きていくためには、その多様性を認め合って、その上で個人が個人なりの判断をすればいいんだと思います。もちろん社会に属する上で、その社会が決めたルール(法律とか)に従うのは義務で、その義務を果たすからこそ、社会が権利を与えてくれるわけですが、それでも多様性を受容するのは、非常に重要なんじゃないかと思うわけです。

つい先日、あるブログ・メディアを運営する編集長(シックス・アパートの社員でもあります)に、わたしが一参加者として参加するイベントに「同行して記事を書く?」と聞いたところ、そのイベントが企業のプロモーション(広告)イベントだったため、「その記事を書いて、あらぬ疑いをかけられたくないので、やめておきます」と言っていました。「ペイパーポスト問題」は、確かによく議論をするべき内容だと思いますが、一方で必要以上の「出る杭を打つ」風潮は、せっかくブログがもたらした、インターネット上での人々の交流(会話)を、遮断してしまうのではないかと危惧します。

トラックバックスパムが、ブログの出始めのころのトラックバックを使った温かいコミュニケーションを、ブログから奪ってしまったように、ペイパーポスト問題が、ブログを使ったさまざまなメッセージのやりとりを、ブログから奪って欲しくないなぁ、と思います。