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関 信浩が2002年から書き続けるブログ。ソーシャルメディア黎明期の日本や米国の話題を、元・記者という視点と、スタートアップ企業の経営者というインサイダーの立場を駆使して、さまざまな切り口で執筆しています

なぜ急に今日、思い出したのかは分かりません。
ただ、思い出した以上、忘れないうちに書いておかないと、どんどん風化してしまうのも事実なので、これを機に思い出しうる限りのことを書いておこうと思う。

ヨリは大学のサークルの同期。インカレ(死語?)なので大学は違うが、18の頃から知っている。大学4年になる直前、当時で言うと就職活動をし始めるころに、就職用の大量の資料が入った紙袋を右手に抱えてテニスを見学しながら、「ちょっと就職活動はできないかもしれないんだ」と言ったところからこの物語はスタートする。

最初はまったく意味が分からなかった。留学するとか、就職しないとか、そういうことかとも思ったが、それについてははぐらかすヨリ。ああ、あれは1991年の1月か2月のこと。そして、それが病気のためだと知ったのは、そのちょっと後のこと。

その直後、たぶん春休みにOB・OG合宿の下見に行ったときのこと。同級生3人と、超先輩(ミスターと呼ばれていた、ちょっと風変わりな20歳ぐらい上の人)を連れて、合宿の宿舎に下見に行き、そのまま宿泊。そのときに同級生の一人が「ヨリってどうしてるのかな?電話してみようぜ」と。

そこで自分が電話をして(当時はまだ電話帳要らずだった)、同級生に順番に電話をまわしていた。なぜ3番目に話した自分にそういう話をしたのかは、最後まで謎だったが、突然「なんで休んでいるのか」(実際、この直後から入院する)について電話口で語り始めるヨリ。ちょうどその病気は、自分が大学に入学した直後、ゴールデンウィークに旅行に出ている間に母親がわずらった病気と同じだったのでその旨を話すと、親近感を覚えたのか、病気の詳細について事細かに教えてくれて、最後に「(さっきまで電話していた二人を含めて)他の人には秘密にしてね」と。

ちなみに母親はそれから20年たってもピンピンしているが、いわゆるガンの一種だったので、22歳になったばかりのヨリには、他の人にはあまり言いたくないことだったようだ。

結局、ゴールデンウィークの前後(だったと思う)には慶應病院に入院するヨリ。そこから闘病生活が始まる。

同級生でヒマだったのは、留年を続けている自分と、大学院に進学した二人ぐらいのもので、ヨリの病院のすぐそばがバイト先だった自分は、そこそこお見舞いにいっていたと思う。お見舞いではお姉さん(2個上)やお母さんとも、よく会ったし、お姉さんとはその後、かなり親しくなったような気がする。

あるときは、ヨリがクスリの副作用で、ほとんどしゃべれなくなっていたときにお見舞いに行き、お姉さんとひたすらマシンガントークを繰り返していたら、本人はまったくしゃべれなかったにも関わらず、後から面白かった、という留守電がきていた(当時は携帯は高くてなかなか持てない時代。メールもなかった)。

4年生の途中で退院し、復学したヨリ。出席日数は足りなめだったが、本人の頑張りもあり、なんとか卒業にこぎ着けるヨリ。1年遅れになるも、積極的に就職活動を続けるヨリ。「サービス業が好きだから、接客業に就きたいな」と語るヨリ。でも、一方で5月には病気の再発の気配が。銀座の喫茶店で、半ば胸をはだけながら「再発しても胸だけは残したい」と言っていたヨリ。

その後、病気は再発し、就職活動は無期延期になり、再び入院するヨリ。毛が抜けてしまうので帽子をかぶり、恐竜のスリッパを履いて病院内をうごきまわりヨリ。「病気のことをよく知らない人をお見舞いに連れてこないで。恥ずかしいから」と言うヨリ。

しかし病魔は進行する。僕とヨリと仲が良い、ヨリの元彼は彼の同級生が病院の先生で「余命いくばくもないらしい」という。僕らは、再発後は、もうそのことについては考えないようにしていた。お母さんも、何かあると、ヨリが亡くなったら、ということを前提にした話し方をしていた。唯一、お姉さんはそうではなかった。

そのうち、自分も就職して忙しくなり、お見舞いもおろそかになってくる。後からヨリの親友から聞いたところ、病気が進んだところをあまり人に見られたくない、と言っていたように、お見舞いそのものも拒否していたようだ。

それでも13年前。家の留守電に、あの気丈なお姉さんが残した、「ヨリが、ヨリが死んじゃったよ」という伝言は、今でも忘れられない。

ちょうどその日は、同期の男子の結婚式の日。ヨリの元カレと自分だけが、出席者でそのことを知っていた(みんなヨリの友人だ。後から、言わなかったことをさんざんなじられた)。二人は「2次会は仕事が忙しいから」と言い訳して、僕のクルマで帝国ホテルから鎌倉のヨリの実家まで向かう。

そこには、自分のベッドで冷たくなったヨリがいた。そういえば、ヨリが再発した直後、ヨリとお姉さんと3人で、新宿2丁目のおかまバーで飲んで、終電でヨリを返して、お姉さんとは始発で帰ったことがあった。お姉さんは、お母さんに朝帰りを怒られるのを恐れて、僕を鎌倉まで拉致して、朝帰りに僕を巻き込むことで怒られるのを回避していた。連れられるがまま朝8時に人の家にいき、結局夜までヨリ、お姉さん、お母さんと一緒にダラダラすごしたのは、後からヨリから聞くに、面白い体験だったとのこと。自分的には微妙だったけど。

そのとき以来のヨリの部屋。唯一の違いは、ヨリがもう息をしていないこと。まだ26歳だったヨリは、後から聞く所によると、集中治療室にいたが、最後は自分の意志で、酸素吸入器を外して、死んでいったそうだ。お葬式のときにお父さんが言っていた「ヨリは末っ子で自分の意志で何もしたことがなかったが、病気になって自分の意志で『生きたい』といって、さまざまな治療を試した」とのこと。ガンの治療は、ほぼそのすべてが辛いものなのだが、「つらいことが嫌いなあのヨリが、病気になってからは、自分の意志で頑張って『生きようとした』」。そこまでして生きようとしたヨリが、最期の最期に自分の意志で、酸素吸入器を外した、というのを聞いて、最後の1年にお見舞いに行っていなかった自分を悔いるとともに、どうしてあきらめてしまったのかを知りたかった。

でも、亡くなってしまったヨリに聞くことはできない。そして、いきなり酸素吸入器を外したヨリの行動を見ていた人は、それを本人に問いただすヒマも余裕もなかったと思う。

ただ、あれだけ世の中に対してポジティブに生きて、でも意志を果たせなかった人がいたことを、ちゃんと思い出さないといけないな、と思いました。

ここを見ているみんな、お墓参りに行こうか。